覆馬場プラザの歴史

「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」(略称「覆馬場プラザ」)は、旧陸軍が1909年(明治42年)第一次世界大戦開戦を間近に軍事増強が叫ばれる中、当時弘前を本隊とする工兵第八大隊を盛岡に誘致し、その後「騎兵第三旅団」を創設、「旅団司令部」と騎兵第23・24連隊に全国から多くの兵士が集まって来ました。
当時騎兵隊の荒天時の調教場所として「レンガ造の覆馬場」6棟が建設され使用されました。

太平洋戦争終結後、海外からの大量の帰国者(引揚者)が移入して来たため、その一時的居住場所として、青山地区に残っていた兵舎や「覆馬場」を改修し引揚者寮として使用されました。

その後、青山地区には公営住宅や一般住宅等も建設され、公共施設の整備も進み盛岡市のベッドタウンとして町が形成されました。そして、国の経済発展と共に青山地区の引揚者寮も徐々に解体・撤去され、戦後の面影が殆どなくなり、残った「覆馬場」は民間企業の工場や倉庫として利用されましたが、「覆馬場」を利用して来た企業も10年ほど前には撤退し、青山地区に6棟あった「覆馬場」も1棟を残し解体され、残った1棟(現「覆馬場プラザ」)も廃屋同様の建物となっていました。

廃屋同様で残った1棟(「覆馬場」)を青山地区の「歴史的遺産」として保存するため、青山地区の有志を中心に盛岡市等へ粘り強い働きかけを行い、平成23年10月27日盛岡市議会で議決されその保存活用が決定しました。

その後「レンガ造」の「覆馬場」の修復改修工事が行われ、平成24年6月1日、明治42年の建設当時の姿で復元され「多目的交流施設」として開館しました。